別離、その先に
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「やっほー、久し振り!」
その日、蛍が1年振りに俺の元に訪れた。
「変わってないね。ここも、アンタも」
蛍はその場でくるりと一回転し、
「私は……どう? 綺麗になった?」
蛍は俺と別れてから、その髪を伸ばしていた。
暑い夏の日だ。彼女は腰まで伸びた黒絹のような髪を、首元を出すようにポニーテールに結っていた。
それは活発な彼女のイメージにピッタリで、とてもよく似合っている。
蛍は手に持っていた焼酎の瓶を掲げて、
「ほら、大好きだった私の実家の蔵のヤツ。高校生の時もこれに浸りっきりだったよねえ、未成年なのに」
彼女はケラケラと軽く笑って、一升瓶を置く。ラベルに刻まれている銘は『オヤジ鏖し』。
「しっかし、ここお酒ばっかねえ。もうちょっと考えろってのは……私には言えたことじゃないか。私も持ってきてるし」
言って、蛍は微笑に目を細めた。まるで何かを懐かしむように。
「……覚えてる? 付き合いだした頃のこと」
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「あーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」
「……耳元で大きな声出すなよ蛍。もっと落ち着きを持て」
遼平は心底煩そうに私を見る。
「ア、アンタ……何飲んでるのよ!」
「何って……酒」
「酒、じゃないわよー!! しかもウチの蔵の! 盗んだの!?」
「人聞き悪いこと言うなよ。もらったんだよ……オジサンから」
「りょっ、遼平クン! それは言わない約束ぶほぁっ!」
お父さんが末尾を言い終わる前に、ジャンピングニーを顔面にぶち込んだ。
「お父さん、何やってんの! 遼平まだ未成年なんだよ!」
「お前俺と同い年だろ。大人の作ったルールを子どもが語るなよ」
「遼平うるさいっ、アンタが開き直るな!
お母さんはお母さんで『これで遼平君も私たちの子供ね』とか言い出すし……どんな神経してんのよウチの親共は!!」
「い、いやだって私たちの子供になったんなら酒造を継ぐってことだろ? それなら酒の味を覚えるのは早い方が……」
それはどういう意味だろうと私が考えていた時、
「すいませんオジサン、なんで俺コイツと結婚することになってるんですか」
遼平の具体的すぎる言葉に、私は顔が熱くなった。
「んー、遼平クン! お義父さんと呼んでくれて構わないのだよ!? いやむしろお父さん!」
「それどっちも同じ音ですね。あと俺はまだ高校生ですよ。結婚云々の年齢じゃないです」
「遼平クン、君はわかっていない! わかってないよ!!
隣の家同士で同い年で幼馴染で、しかもそれが男女であるならばそれはもう運命なのだよ! 諦めて酒造を継ぎたまえ!!」
「諦めるのに手に入るモノがあるなんて、おかしな話ですね」
「ハハハ相変わらず絶対零度だね遼平クン! お父さんキミのそんなところが好きだよ!!」
お父さんは真正のマゾだ。そうに違いない。
「ダメな父親を持つと苦労する……」
「同感だ蛍。オジサンは父親にしたくないタイプだな」
「それやんわり僕の申し出断ってます!?」
「さっきからはっきりと断ってるつもりですが……そんなオジサンでも酒造るのは上手いんですね」
「ん? ああ、親父からミッチリ仕込まれたからね。今年のは本当にうまくいった自信作だよ」
さりげなくヒドイ事言われてるが、お父さんは気付いていないらしい。
お酒の事になるとそれしか見えなくなるのがお父さんのイイトコロ、とお母さんは言っていたが、さて。
「俺はあまり酒飲まないですけど……これは結構いけます。
ほら、蛍」
「え?」
遼平はこっちに顔を向けて、
「飲んでみろよ、オジサンの自信作」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「え!?」
「そんなに驚くことかよ……ていうか大声出すなって」
「い、いやだってソレ……」
遼平の手にはグラスが握られている。
さっきまで、遼平が飲んでいたグラスが。
「蛍ちゃん……そんなにお父さんのお酒飲むの……イヤ?」
「お父さんキモいから女口調にならないで」
部屋の隅で膝を抱えるお父さん。お父さんは真正マゾヒストなので放置プレイで問題ないはずだ。
「りょ、遼平……」
「いらないなら別にいいけどな。でもお前、オジサンの酒飲んだことないんだろ?
親の生業を知るってのは大切なことだし、これを機会に飲んでみたらどうだってだけだよ」
いま私に差し出されているグラスは、遼平が口を付けていた側が奥側だ。
「う、うん……じゃあ、もらう」
「ん」
遼平からグラスを受け取る。中を覗き込むと澄んだ液体が入っていてグラスの底が見えた。
水面に映る私の顔は紅潮している。
なんで! なんでこんな事で照れてるの私!! 私と遼平は付き合ってるのよ!?
小さい頃にふざけてキスもしたでしょ!? 付き合い始めてからはしてないけど!!
それにそのまま飲めば口も付かない! 何も問題ないじゃない!!
自分にいろいろ言い聞かせても、赤は収まるどころか濃くなるばかりだ。
「蛍?」
遼平が怪訝な顔をしてこっちの顔を覗き込む。いま赤くなってる顔を見られるのは恥ずかしいので、
「――――――――」
グラスの中身を飲むことで、顔を上に向けて表情を隠した。
飲み口は、逆のままで。
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「結局あの後、キスの一つもできないままでさー。ある意味貴重な思い出だよね」
蛍は少し遠い目でハハハと乾いた笑いを洩らしている。
俺は正直笑えなかったが、彼女と一緒に苦笑した。
久し振りに会えたのだし、明るい空気を壊したくなかったのだ。
――――もう終わったふたりの間では、無駄な事だと分かっていても。
蛍は手際よく2つのグラスに氷を入れ、『オヤジ鏖し』を水で割っていく。
蛍の親父さんが造った焼酎の水割り。俺が初めて呑んだ酒だ。
4年前にこれを呑んだ時、苦いような甘いような不思議な味がしたのを覚えている。
きっとこれも、同じ味がするのだろう。
――――それとも。
俺が今でも蛍に恋い焦がれてる分、彼女が作った水割りは甘いのだろうか。
彼女はグラスの片割れを俺の前に飲めとでも言うように置き、自分も右手に持つ。
「遼平、かんぱい」
2つのグラスがキンと高い音を立てた。
蛍はグラスの中身を一気に呷る。
驚いた。
蛍は今年で―――というより今日―――二十歳になったばかりのはずだ。
コイツの性格じゃ、きっと今日まで一滴も酒に手を出してないだろうし……。
どうやらとんでもない酒豪の才能があったらしい。
「あー、おいしい! 今まで知らなかったけどお酒って結構いいわね。
なんだか遼平が酒浸りになるのも分かる気がするわ」
少し紅潮した顔で蛍は笑う。
別れてから4年。それだけの年月が経てば表情も変わる。
大人の顔になった彼女の頬の赤さはとても新鮮で、
――――それが少し、悲しかった。
蛍は空になったグラスを氷でカラカラと鳴らして微笑んだ。
「思えばさあ……結局あれが最後のチャンスだったんだよね。
くうう、間接キスさえこなせないなんて青いわね当時の私……!」
悔しそうに彼女は唸る。グラスを握る手には力が入っていて、少し震えていた。
その震えは過去の自分への憤りか。それとも――――
「分かってると思うけどさ、私やっぱり二十歳になるまでお酒に手は出なかったのよ。
その方が成人したときにアンタと飲むお酒が美味しくなるような気がして。
でも、さ……」
――――今の俺を想っての悲泣か。
「もう……とっくの前に一緒に飲めなくなってるのにね。何で来ちゃたんだろう」
蛍は目の前の石碑に触れる。墓石だ。
ザラザラした墓石には、俺の家の名前が彫られている。
彼女は、バカみたいと自嘲の呟きを洩らす。
「もう一度……会いたい、会いたいよ……」
涙が、グラスの中の氷に落ちる。
彼女は俺が眠る石の前でうずくまって泣いている。
俺は……大切だった女の子が泣いているのに、何も出来ない。
体のない俺には、声を出すことも彼女に触れることも出来やしない。
「遼平ぃ……」
快活だった彼女の顔が涙で濡れていく。
笑っていてほしいと思うのに。
俺の想いはまだここにあるのに。
それだけじゃ、彼女に気付いてもらえない。
そんなのは、いやなのに。
指で彼女の目尻を拭う。
透けた指は涙を通り抜けるだけだ。
綺麗な髪を撫でてみる。
梳った髪の感触は、俺には解らない。
好きだよという気持ちを口に出す。
音は出ないまま、気持ちだけが空に溶けた。
それでも――――俺は。
俺は。実体のないカラダで、彼女を抱き締めた。
「……あ」
蛍は何かに驚いたように顔を震わせ、目を見開いた。
目の中に溜まっていた雫が散る。
俺は強く、強く彼女を抱く腕に力を込める。
それが気持ちの代弁になってくれるように。
どこにも俺がいなくても、確かな想いが伝わるように。愚直に願いを込めながら。
蛍の手からグラスが滑り落ちる。
彼女は空いた手で、目の前の空間を抱くようにした。
まるで、そこにいる大切な人を抱き締めるように。
「――――遼平?」
――――ん?
「――――ひさしぶりだね」
――――ああ。
「――――元気だった?」
――――元気、だったよ。
「――――そう。……よかった」
――――ああ。
通じない筈の言葉が。
「――――ねえ、きこえる?」
――――ああ、きこえるよ。
蛍の心臓の音。
「――――私もね、きこえる。
遼平が、どきどきしてる音」
――――嬉しいんだ。また蛍と触れられて。
「――――そう」
音にもならない言葉が。
――――蛍。好きだ。
「――――私も。遼平のことが大好き」
大切な想いが、抱き締めた腕と抱き締められた体を通って伝わっていく。
動くものは何もない、止まっている時間の中で。
彼女の離したグラスだけが地面に落ちていく。
「――――遼平」
――――ん。
「――――キス、しよ」
――――ああ。
密着している体を、少しだけ離す。
蛍は存在しない俺の顔を確かに見据えている。
そのまま顔を近づけて、口づけをした。
グラスが、割れた。
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高い音が響いた瞬間、私はハッと目を開ける。
足元には砕けたグラスの破片と、
眼前には遼平の眠る墓標。
「…………」
唇に人差し指を当てる。
感じた熱は、そこにはもう、ない。
「でも……」
自分の体を抱き締めてくれる、確かな力を感じた。
蛍は自分の体を抱えて微笑んだ。
いや、それは“微笑む”というより、“にやけている”という方が正しい。
――――変わってなかったなあ。
二十歳の蛍が見たのものは、一六歳の蛍の前を去った大切な人と同じ姿。
身長も、声も、顔も、抱いてくれた腕の温かさも。
そして、その想いも。
「――――だよね? 遼平。
私のこと、好きでい続けてくれたんだよね?」
答えは帰ってこない。想いを乗せた声は、向かう場所もなく霧散する。
だけど、蛍はそれを悲しいと思わなかった。
不安を感じる必要はない。
想いの確認は、たったの一度で十分だ。
だからアイツとのキスも、あの一回が最初で最後の……
そこまで考えて、蛍は苦笑した。
呆れてしまったのだ。
遼平の墓標の前に一升瓶を置いて、振り返る。
歩きながら、蛍は思う。
ファーストキスはレモンの味だなんて、一体誰が言い出したのか。
蛍が遼平とのキスで得た感想は、たったのひとつだけだった。
「……お酒臭かったわね。
あのバカ、まだ呑み足りないのかしら」