それは気付けば在るものではなく、自ら拾いに行くもの
花を育てた男
あるところに、一つの大きな植物園があった。
そこは何代も前から続く一族の由緒正しい植物園で、高い山の頂上で多くの果物や、野菜、そしてとてもきれいな花を育てていた。
その植物園を営む夫婦の間に、一人の男の子が生まれた。
男の子は祖父母夫婦や町の人達、国の王様にもその生を祝福された。
願わくば、この子が幸せな人生を歩めますように、と。
季節は流れて、男の子は成長した。
毎日山の森を駆け回る腕白で遊び盛りな男の子は、しかしとても心の優しい子だった。
彼は両親の手伝いを通して、植物との心の通わせ方を知る。
彼は自分の家の仕事が大好きだった。まだ難しい言葉を知らない彼は、その気持ちを何と言えばいいのか分からなかった。
そんなある日、彼は枝から落ちてしまった一つの花を拾う。
真っ赤な花びらを大きく付けた、とてもきれいな花だった。
枝から落ちた花は、栄養がもらえなくなって枯れてしまうしかない。
彼はそれにひどく心を痛めて、その花を押し花の栞にした。
押し花にしてしまってもその花の美しさは変わらなかった。
いや、むしろずっときれいなままでいられるのだから、こっちの方がとても素晴らしいことに思えた。
彼はその栞を大切に使った。学校で使う教科書や、読書や、日記なんかに使って、いつも持ち歩いた。
また数日して、家の手伝いをしていた彼の前に、突然一人のきれいな女の子が現れた。
真っ赤なワンピースを着た女の子は彼に言った。
「私はあなたが押し花にしてくれた花の精霊です。あなたが大切にしてくれたから、私はこの姿になれたのです」
強い思いを込めると奇跡が起こる。母親が話してくれたおとぎ話に有った事だ。
きっとこれもそうなのだろうと、彼は思った。
女の子は彼にしか見えなかったけど、家の仕事を手伝ってくれて、すぐに仲良くなった。
「これからここに住むの?」
「私はあなたと一緒にいるものです。これからもお手伝いしますよ」
彼は新しい友達をとても喜んだ。
更に長い時が流れて、男の子はもう青年と呼べる一歩手前にまで成長していた。
教えてもらわなくても仕事が出来るし、山の麓の市場にも一人で行けるし、早起きして早朝から熱心に植物の世話するようになった。
女の子の姿も彼に合わせて成長していた。彼女は彼と一緒の生活の中で、少しずつ人間の事を学んでいた。
彼らはとても幸せだったけど、その幸せは長く続かなかった。
国が、戦争に巻き込まれたのだ。
彼の父親も、兵士として徴用された。
父親は彼にこう言った。
「男手はお前一人だけになってしまうけど、お母さんを頼んだよ。お前はもう立派に花を育てられるんだから大丈夫だ」
そう言って、父親は戦争に行ってしまった。
彼は大きなショックを受けたが、泣いてはいけないと歯を食いしばった。
自分がお母さんを守らなければならない。
その為には、植物園を守らなければならない。
「君は、手伝ってくれるかい?」
「もちろんです、私はあなたと共に在るものなのですから」
少年と少女は、一生懸命になって花や果物や野菜を育てた。
やがて、少年が青年に、少女が女性になる頃に、戦争は終わった。
彼らの父親は、帰って来なかった。
母親はそのショックで倒れて、後を追うように死んでしまった。
植物園には、彼の祖父母と、彼らだけが残されてしまった。
お祖父さんは彼にこう言った。
「お父さんもお母さんも死んでしまったけどね、ワシらはお前がいてくれるからさびしくないよ。先にいってしまうワシらを許しておくれ」
彼はまた泣きそうになったけど、泣かなかった。
そんな彼の表情を見て、彼女は言った。
「人間は、死んでしまうものなのですか? 人間は、死ぬのが怖いのですか?」
「うん、死ぬのはとっても怖いことだ。だけど一番怖いのは死んでしまうことじゃないんだ」
彼女には、その意味がよく分からなかった。
言葉の通り、祖父母は彼より先に亡くなってしまった。戦争が終わった数年後のことだった。
彼は一人になっても植物園を続けた。
戦争が終わっても、国が受けた傷はすぐには癒えない。
山の頂上は人が来る事も少なく、孤独な時間が多くなった。
だけどさびしいと思った事は一度もなかった。
彼には、彼女がいたから。
彼女はどんな時でも彼と一緒にいた。
栞の花は枯れる事無く、彼女は美しい女性で有り続けた。
「僕の手はもうこんなにシワシワになってしまったのに、君の手は綺麗なままだね」
「私は、枯れません。美しくあることを望まれたものですから」
「そっか。一緒に年を取れないなんて少し残念だな」
彼女もまた、そう思った。
彼は植物の世話に手を抜いた事がなかった。
かといって、必要以上に躍起になったりもしなかった。
雨の日も、風の日も、丁寧に丁寧に、植物たちの世話を続けた。
まるで、そうすることでしか生きられないとでも言うように。
ただ静かに、片時も止まらず、植物たちのことを想い続けた。
「あの」
「なんだい?」
「さびしくは、ないのですか?」
「さびしくないよ。僕は、ここで花を育ててるからね」
長い長い年月が経って、彼は歩けなくなった。
国が無くなって、山には植物園しかなくなった。
高い山の頂上に何があったのかも忘れられ、彼は本当の意味で独りぼっちに近づいていった。
初夏の晴れの日。太陽は暖かい。彼は植物園の真ん中に自分が座った車椅子を引いて、大きく息を吐いた。
彼はもう、息絶えてしまう寸前だった。
空が綺麗な日だった。斑に広がった雲が濃い色の青を柔らかくする。こんな日には緑が良く映える。
「……少しだけ、君に謝りたいんだ」
「何をですか?」
「……さびしい思いを、させてしまったね」
彼は生涯、伴侶を作らなかった。子供も、孫もいない。
この植物園が人に営まれるのは、今日で終わりだった。
彼女は首を振って、彼の手を握った。
彼は少し驚いた表情をした後、むず痒そうに口を歪めて、目を閉じた。
握られた手は、温かい。
「……こんなにも綺麗な花たちを育てた。
僕はそれだけで、十分だ」
「――――はい」
やがて彼は、ゆっくりと目を閉じた。
そして、彼は二度と起き上がることはなかった。
風が吹いている。気持ちのいいそよ風だ。
風が葉を揺らし、花を揺らし、彼の髪を揺らしている。
所々に雲がある空だが、太陽には一つの影も落としていない。
彼の安らかな顔が、うっすらと陽に照らされている。
彼女はその寝顔を優しく見守って、一度だけ身体を抱いた。
車椅子を押す。
植物園の真ん中にある白い家。
彼の家だ。彼と、家族が暮らしていた家。
ベランダには陽が差し込んでいる。風がとても涼しくて気持ちよさそうだ。
彼女はそこにベッドを移して、彼を寝かせた。
ちゃんと、太陽が当たる様に。
そして、植物園全てが見渡せるように。
「――――おやすみなさい」
微笑みで彼の頭を撫でて、彼女はまた木々たちの方へ歩いていった。
「良い天気ですね。……今日は何からしましょうか?」
如雨露を手に取りながら、彼女は木陰に消えていく。
彼が寝ているベッドの脇には、あの花の栞が置かれている。
fin.